日記

【完結編】寒川様の正体

こんにちは。秋鐘です(^ω^)ノ🔔

昔書いた『寒川様の正体がわかっちゃった』で引っかかっていた謎が全て解けたため、完結編を執筆致します。

過去記事はこちら💁‍♂️

寒川様の正体がわかっちゃった( ゚д゚)1500年以上前に、誰が何の神様を祀ったのか本当を知る人は誰もいません。伝統に残された僅かなヒントを手掛かりにそのルーツに迫ります。...

おさらい

神代の歴史書ホツマツタエが真実という前提で書いています。

推測をピンク色で示します。

寒川ヒコノミコトの正体

寒川ヒコ尊の正体は『ウマシアシカイヒコチ神』で別名『地の神』。

イザナキ・イザナミより古い時代から信仰されていて、政治を行う際には必ず地の神の承認が必要とされていた。

方位を司る五座(イクラ)神と、生命を司る六腑(ムワタ)神の2神合わせて合計11柱の男女で構成されている。

寒川様が男女の2神として祀られていることと一致するし、全国唯一の方位の神、ヒコ尊という名前とも一致する。

ウマシアシカイヒコチの名を「旨し(食)」「アシ(衣・住)」「貝(貝札=文化)」「引来チ(引き寄せ=生み出す)」だと推測すると、『衣食住の関東文化を生んだ親神様』とされる寒川様の言い伝えと一致する。

イクラ神はキ・ツ・ヲ・サ・ネの5柱で、キ・ツ・ヲが産んだ6柱をムワタ神と呼ぶ。

寒川神社に伝わる謎儀式『座問答』に集められる周辺5社は五座神を表し、2社が虎の毛皮を3回ずつ交互に譲り合う様子は、男神のサとネが交互に子孫を残すことを表し、3回ずつ=合計6柱の子が産まれたことと一致する。これは5柱全員の血を均等に分け新たな神を誕生させる問答であった。

座問答を終えた後に向かう場所が『六所神社』であり、男根を象徴する神輿を担ぎ白鳥(コウノトリ)が舞う一連の祭りを『国府祭』と呼ぶ。六腑神を産んだ誕生祭を伝承していると推測した。

寒川神社を建てたのは誰なのか?

神社を建て地の神を祀ったのはソサノヲとその子供達。

寒川神社の末社(その神社に縁がある神を祀る社)にはソサノヲ、長男長女次男次女の4大神、三男の歳神、四男の大物主、父母のイザナキ・イザナミ、甥のタケミカヅチ、謎の仁徳天皇が祀られている。

出雲の統治を中央政権に譲った後、統治者だった大物主が青森に異動になったため一族揃って青森に移ったと連想させられていたが、国譲り後には大物主しか登場しないため、実は大物主以外は関東に住んでいたのではないか。

寒川周辺に移り住んだソサノヲと子供達。大物主は1人で全てを背負って青森を開拓。

寒川神社の名前

ソサノヲの時代、政治の基本は地の神を祀る事にあった。新天地開拓でまず神社を作ったがそれを中央政権に知られるのはまずいため暗号化する必要があった。自身も氷川神ではなく寒川と名乗った。

名もない神社は寒川様が作ったのでいつしか寒川神社と呼ばれるようになったが、祀られている神はソサノヲではなくヒコノミコト。

タケミカヅチ

家族では無く親戚のタケミカヅチが一緒に祀られている点は興味深い。

ソサノヲ達が統治していた出雲が豊かになりすぎたので反乱を恐れた中央政権が先制で戦争を仕掛けたが、中央軍の大将タケミカヅチが大物主を説得して無血降伏となった。

その功績によってタケミカヅチは関東全域を預かる重鎮となり、ソサノヲ一家を中央政権に知られないように関東にかくまうことができるようになった。

また、タケミカヅチは全国を巡って日本地図を作成した功績がある。説得の際にソサノヲ一家の新天地となるべき場所を出雲大社との位置関係(レイライン上で繋がる位置)から割り出したのでは無いか。

仁徳天皇

寒川神社境内に『難波の小池』という湧水があるが、これは仁徳天皇(=難波天皇)が人工的に作ったものと思われる。古くなった寒川神社を再建して周辺住民から感謝された。

だが、果たしてそれだけでソサノヲの功績に名を連ね、共に同じ神社に祀られることになるだろうか?あたかもソサノヲと共に国造りをしたかのような印象だ。

最後の謎

最後の謎、仁徳天皇はどのようにソサノヲと関わるのか。それを示して完結編とします。

仁徳天皇の正体

仁徳天皇の正体は『ヤマトタケル』

時代が400年も違うし系譜もずいぶん飛んでいる。そもそも両者とも本当に存在したか疑わしいと言われている。(複数人のエピソードが集合して作られた架空の人物ではないかと言われている)

このミステリーを紐解いていきます。

ヤマトタケルが生きた時代

ホツマツタエによると、長い歴史の流れで天皇家のお葬式に殉死制度が根付いたが、垂仁天皇がその制度を廃止したいと考え、妻の葬儀の時に埴輪に置き換えた。

はにでこおよび くさくさの
かたちつくりて たてまつる 
いまよりのちは はしものお 
いけるにかえて みささきに 
うえてためしと なすべしや

ホツマツタエ

古墳から埴輪が出土し始めるのは3世紀後半と分かっている。つまり歴史書で伝わっている年代が間違っており、実際には垂仁天皇は375年頃に在位していたことになる。

ホツマツタエの年表を並べてみましょう。

垂仁32年:皇后ヒハズ姫死亡
垂仁99年:垂仁天皇死亡
景行天皇即位
景行2年:ヤマトタケル誕生
景行28年:熊襲討ち
景行40年:ホツマ討ち
景行41年:ヤマトタケル消息を断つ
景行54年:ホツマツタエ完

ヒハズ姫の死亡(=埴輪の始まり)が375年とすると、ヤマトタケルが生まれたのが444年。483年に消息不明(39歳)。

白鳥になって消えたとされるヤマトタケルが15年後に朝廷に復帰し天皇として80歳まで生きたと仮定すると、在位期間は496年〜520年となる。

一方の仁徳天皇については現在以下のように推測されている。

実在したとすれば4世紀末から5世紀前半に在位したと推定されている。

Wikipedia

時代が完全に一致している。

相模の地に残されていた奥義書

武内宿禰(たけうちのすくね)が景行天皇の指示で青森から関東までの調査を任され、ホツマの文化・歴史に魅了され、最終的に相模の地で数々の古文書を見せてもらう。

中でも日本の統治者として最も重要な奥義『神祈り粥のアヤ』を写し取った。

出雲の一連の行事(七草粥など)を伝える奥義書で、ウカノミタマと五柱、トシノリ神、八将神、五座神、六腑神、(※)地の神の血の祀り、天神などを祈って粥を作ることで文化を継承し、神と歩む人の道を次の世代に繋げていく。

(※)「つちぎみの しむのまつり」をSweet☆Homeでは土君=地の神、しむ=血と訳しました。(シムは専門家によって心や血と訳されている)

相模の有力者の家に出雲の奥義書が保管されていたことは、ソサノヲが相模を開拓していたことが暗示されている。武内は天地開闢からの歴史を知り、ホツマの理想的な平和世界を体感し、ソサノヲの国造りを天皇家が受け継がなければならないと悟った。

橘の木とオトタチバナ姫

そもそも景行天皇がホツマ調査を命じたのは、垂仁天皇からの流れがあった。

古代の建国理念を取り戻したいと考えた垂仁天皇はタジマモリにカグ(=橘)の木を探してくるよう命じた。

タジマモリは相模の地でカグの木を守っている人々と出会い、共に生活し、ついに苗木を持ち帰るも垂仁天皇は老衰で亡くなっていた。

(相模は)「そこかしこに神の存在を感じさせる幽玄の地だった」と報告し、その土地の豪族との間にオトタチバナ姫が生まれ、相模と大和朝廷は固い絆で結ばれることになった。

景行天皇はこの一件から、失われてしまった建国理念と古くからの伝統文化を再発掘して統治に活かしたいと考えるようになり、武内宿禰をホツマ調査に向かわせたのだった。

タケウチノスクネとヤマトタケル

ホツマ文化に完全に魅了され、神祈り粥の奥義まで会得した武内宿禰は帰朝して次のように報告します。

「強大な軍事力があり、どの土地も肥えて自立しています。服従しなければ攻め取るのも良いでしょう。」

いさみたつ すへてゑみしの くにこえて
まつろはざれば とるもよし

ホツマツタエ

その後、蛮族に脅かされるホツマの民から救援依頼が来たため天皇の全権を委ねられたヤマトタケルがホツマ平定に向かうことになる。

数百年戦争を起こさず自立して平穏に豊かに暮らしてきた人達が急に都合良く交流の無かった大和朝廷に救援を求めるでしょうか?

武内宿禰はヤマトタケルの遠征に先立ってオトタチバナ姫を相模の祖父の家に向かわせた。大和朝廷の味方は相模まで。つまり戦争の最前線という死地にヤマトタケルの1番大切な人を待機させた。

城が炎上してギリギリのタイミングでオトタチバナ姫を救出したヤマトタケルだったが、相模から九十九里浜まで船で移動する間にオトタチバナ姫は海に飛び込んで自殺してしまう。

おおいそお かづさえわたす いくさぶせ
ただよふかぜお しつめんと
おとたちばなは へにのぼり
あめつちいのり わがきみの
いつおやまとに たてんとす
われきみのため たつとなり 
ふねまもらんと うみにいる

ホツマツタエ

『荒れる海を鎮めるため』として語られている有名なエピソードだが、本来相模の城で死ぬはずだったオトタチバナが死に場所を探したように感じる。

ホツマ平定後、相模の地に戻りオトタチバナ姫が古代の儀式『つかりあびき』で祀られるのを見てヤマトタケはソサノヲを意識するようになる。

オトタチバナを祀る特別な儀式はヤマタノオロチの生贄になった姫達をソサノヲが祀った儀式と同じで、ヤマトタケの斎名ハナヒコはソサノヲの斎名ハナキネと似ていて、女を演じて酒を呑ませ討ち取った九州平定もヤマタノオロチ討伐と重なる。ソサノヲはオロチを倒したトツカノ剣を『天叢雲剣』と名付け、ヤマトタケは火攻めを返した天叢雲剣を『草薙剣』と名付けた。豊かになりすぎた平和な国(ホツマ)が朝廷に攻め込まれ説得で国譲りになったのも出雲と同じだった。歌が得意なところもよく似ている。

ヤマトタケとソサノヲを結び付けるためにオトタチバナ姫には死んでもらう必要があり、武内宿禰が画策し、オトタチバナ姫もそれに同意した。

聡明なヤマトタケルは武内が抱いた危機感も、オトタチバナの信念も、今回の遠征の意味も、全てを理解して受け入れ、ソサノヲの国造りを継承する決意をした。

ヤマトタケは自分をソサノヲの生まれ変わりだと確信し、驕りを恥じ、ソサノヲと同様身分を捨て去り下民の生活に身を投じる覚悟をした。

ヤマトタケルを埋葬後、凌(古墳)から白鳥が飛び立ち、棺を開けてみたら空だった。ヤマトタケルは鳥になって天に帰った。というトリックを使って姿を消しソサノヲが開拓した相模の地で下民の暮らしに紛れこみ、文化や思想を肌で吸収した。

相模のオトタチバナ姫の祖父は『神祈り粥』の奥義をはじめ、数々の文化や歴史を記録した書物を持っている知識人だったのでヤマトタケルの願いを聞き入れ下民の生活に紛れ込む手伝いをした。また、[別雷の天君]ニニキネが考案した大規模な灌漑工事や湧水の利用方法などを書物から学ぶ手伝いをした。ヤマトタケルが実践した技の一つが『難波の小池』(人工的な湧水)である。

寒川神社の末社にてソサノヲ一家と共に祀られる『大雀尊(オホサザキノミコト)』(=仁徳天皇)

サザキは『小さな鳥』という意味だが、『王族から見た民衆』を表す言葉でもあるらしい。『民に紛れ込んだ王族』もしくは『民の心を知る王』という意味で大雀と名乗ったのかもしれない。

武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで仕えた伝説の忠臣とされている。死んだことになっていたヤマトタケを再び天皇に即位させるにはよほどの権力者が歴史的なトリックを使う必要があり、長期的な視点での筋書きと根回しが無ければ不可能だったはず。

タケウチノスクネとワカタリヒコ

天皇になるはずだったヤマトタケルが失踪し、代わりに親王ワカタリヒコが成務天皇として即位したのは間違いない。

天皇の子ワカタリヒコと、重鎮の子タケウチは同年同月に生まれて兄弟のように育てられたが、2人はヤマトタケの3歳年下なので、近親者の立場から武勇や歌の才能に強い憧れを抱いていたに違いない。

世直し出来るのはヤマトタケルをおいて他にいないと確信し、2人で計画を練り上げ、ヤマトタケルが戻ってくるまでの代理として仮の天皇を勤めたのではないか。

仁徳天皇の活躍

ホツマツタエは景行天皇までの歴史なので仁徳天皇は登場しません。

現在語られている仁徳天皇の伝説は次の通り。

即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。

Wikipedia

長く失われていたニニキネの技を急に復活させることができた仁徳天皇。どこで学びどこで実践経験を得て、どこから現れ、武内とどのような関係だったのか。

ホツマツタエ下巻はなぜ生まれたのか

よよのふみ まちまちなれは
みんひとも あらかじめにて
なそしりそ ももちこころみ
はるかなる おくのかみぢえ
まさにいるべし

ホツマツタエ 巻末

【訳】世にある歴史書は少しずつ違っているもので、ホツマツタエも事実と違うところはあります。そのことを前提に踏まえ、様々な検証や考察を繰り返し、神の真意を理解したとき真実に辿り着いていることでしょう。

ホツマツタエ下巻の編者オオタタネコはソサノヲ直系の末裔で、ヤマトタケの葬儀では斎主(最高責任者)を務めている。

作られた時期は景行天皇の晩年。景行天皇がヤマトタケのたどったホツマ道を旅行して様々な視点を得て帰ってきた時に献上された。

ほつまつたゑの よそあやお
あみたてまつり きみがよの 
すえのためしと ならんかと 
おそれみながら つほめおく

これみんひとは しわかみの 
こころほづまと なるときは 
はなさくみよの はるやきぬらん

いそのわの まさこはよみて
つくるとも ほつまのみちは
いくよつきせし

ホツマツタエ巻頭

【訳】各地に残された神々の歴史や思想を集めたホツマツタエを献上します。おそれながら今後の天皇家の政治規範として頂きたく存じます。

万民にシワカミ・ホツマの精神が浸透したなら花が咲き春のような世になるでしょう。

磯の砂粒ならいつかは数えきってしまうでしょうが、ホツマ道はこの世が存在し続ける限り永遠につきることはありません。

まとめ

以上がホツマツタエを基に妄想を膨らめた寒川神社のエピソードでした。

最後までお付き合い下さりありがとうございました。ほとんどは妄想に過ぎませんが、ホツマツタエに興味を持つ人が増えてホツマ道が浸透する手伝いが出来たら幸いです。花咲き春が訪れますように(^人^)

※参考文献・webサイト

はじめてのホツマツタエ 天・地・人


やまとことばのみちのく

この美しき瑞穂の国

ホツマツタエ音読ガイド

日本翻訳センター

ABOUT ME
akikane
2016年5月に夫婦共通の趣味として共同ブログを開設。その後1男授かり子育てメインのブログとして発展してきました。 ⭐️ブログ:【Sweet☆Home】 ⭐️Twitter【Sweet☆Home-夫】【S☆H-Rui】 ⭐️YouTube:【SweetHomeチャンネル

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です